現在、広島カープの18番を背負っている森下暢仁選手。
好投を続けていましたが、2022年に不調を訴え、右ひじを怪我していたことがわかりました。
この時、森下選手は、「右肘関節鏡視下骨棘切除」、そして、「右肘関節内滑膜切除」と呼ばれる手術を受けています。
プロに入ってから初めての怪我だったので、心配したファンも多いのではないでしょうか。
調べてみると、森下選手は学生時代から怪我の多い選手だったようです。
この記事では、森下選手がどのような怪我を経験してきたのか、そして、復帰後の様子についても明らかにしていきます。
大学入学までの森下暢仁選手
大分県で生まれた森下暢仁選手は、小学校3年生から野球を始め、中学校の野球部ではピッチャーをしていました。
しかしながら、ひじを怪我してしまい、野手に転向します。
中学校3年生のときにはピッチャーとショートを務め、九州大会で優勝を果たし、全国大会にも出場しました。
その後、森下選手は大分商業高等学校へと進学します。
監督の勧めもあり、再度ピッチャーに挑戦することになりましたが、2年生になると、またもや野手へと転向しました。
そして、2年生の秋、なんとまたピッチャーを務めることとなったのです。
こんなにもポジションが定まっていないのは、珍しい気がします。
器用な森下選手だからこそできたのかもしれませんね。
高校最後の夏の大会では、5試合に先発で出場しました。
最後の大会で甲子園出場を果たすことはできませんでしたが、U-18に選出され、ワールドカップ準優勝という結果を残しています。
森下暢仁選手は、高校進学時はそれほどプロへの思いはなかったようですが、大学進学の道を選択しました。
大学時代の森下暢仁選手
明治大学に進学した森下暢仁選手は、1年生の東京六大学野球連盟春季リーグ戦から登板を果たします。
しかし、右ひじを怪我してしまい、他の1年生ピッチャーに出遅れてしまいました。
打順は5番だったので、登板予定のない日には代打で出場していたり、外野の守備についたりと、打者としての活躍は見せていたようです。
2年生の春からは再びピッチャーとしてリーグ戦に出場し、防御率ランキングで2位を獲得しました。
国際大会にも2年生のときから選出されています。
右ひじの怪我をものともしていないことがわかります。
3年生のときには最速154キロを記録し、エースとして活躍しました。
4年生からは主将としてチームを引っ張り、明治大学をリーグ戦で優勝に導いたのです。
また、2019年に行われた全日本選手権では、明治大学を38年ぶりの優勝に導き、MVPと最優秀投手賞を獲得しました。
森下暢仁選手は、なぜか怪我をした後の方が、急速がアップするという傾向があるようです。
不思議ですね。
広島カープ入団後の森下暢仁選手
ドラフト1位で広島カープに入団した森下暢仁選手は、前田健太選手が退団してから空きとなっていた背番号18をつけることとなりました。
1年目から活躍を見せ、18試合の登板で10勝3敗を記録しました。
さらに、防御率1.91、奪三振は124、勝率は7割6分9厘と、いずれもチームトップの成績を収めます。
球団では大瀬良大地選手以来の新人王を獲得しました。
2021年はコロナウイルスに感染したことで思うような結果が残せませんでしたが、24試合の登板で、8勝7敗、防御率2.98を記録しています。
推定年俸は前年度から3200万円増加した7500万円となりました。
2022年にはリーグでトップとなる27試合に登板し、10勝を挙げました。
しかし、ここで森下選手は怪我に襲われることとなるのです。
侍ジャパンの強化試合のメンバーにも選出されていましたが、怪我によって辞退せざるを得ませんでした。
右肘関節鏡視下骨棘切除と右肘関節内滑膜切除の2つの手術を受けたことで、WBC本大会への出場も絶望的となり、結果的に、辞退することになりました。
重要なタイミングで怪我をしてしまうのは不運だと言うほかありません。
怪我から復帰した2023年は、調子を取り戻し、結果的に、20登板で9勝6敗という結果を残しています。
森下暢仁の怪我は?復帰後の成績について解説します!【まとめ】
森下暢仁選手の怪我と、その後の様子についてまとめてみました。
学生時代から怪我の多い選手だったようですが、その度に復活を遂げ、怪我前よりも良い成績を残すことが多かったようです。
ピッチャーにとってひじの怪我は常に付きまとう問題だと思いますので、森下選手の回復力には驚きです。
もちろん怪我がないことが一番なので、これからも大きな怪我無く、第一線で活躍し続けてほしいです!