それまでの実績は様々ですが、外国人は入団当初から注目され、チームの主力としての活躍を期待されます。
慣れない国での生活とそのプレッシャーの中で期待通りの活躍を見せる外国人は、ほんの一握りかもしれません。その中でも、ヤクルトスワローズの歴代の外国人は、優秀な選手が多い印象です。
メジャーリーグなどで実績のある外国人だったり、日本に来てから腕を上げた外国人など、様々なタイプがいましたが、チームにとけ込み、勝利に貢献してくれました。
ここでは、ヤクルトスワローズの歴代の外国人の中から、特に印象深い選手、マニエル選手・ホーナー選手・ホージー選手・バレンティン選手を紹介します。
ヤクルトスワローズを初めて優勝に導いた「赤鬼」チャーリー・マニエル
チャーリー・マニエル選手は1976年にヤクルトスワローズに入団。1年目はあまり活躍できませんでしたが、日本の野球に慣れ始めた2年目には当時の球団記録となるシーズン42本塁打を放ちます。
そして翌1978年は若松勉選手・大杉勝男選手とともに強力クリーンナップを形成、打率.312・39本塁打・103打点と大活躍をし、ヤクルトスワローズ初のリーグ優勝と日本一に貢献しました。その迫力から「赤鬼」と呼ばれ、他球団から恐れられました。
しかし、守備・走塁において当時の広岡達朗監督の評価は低く、優勝の翌年に近鉄バファローズへトレードされます。近鉄バファローズでも赤鬼のパワーは健在で、チームを2度のリーグ優勝に導く活躍を見せます。最後は再びヤクルトスワローズへ戻り、1981年シーズン終了をもって日本を去りました。
現役引退後は、2008年にメジャーリーグのフィラデルフィア・フィリーズの監督としてワールドシリーズを制覇するなど、指導者としても才能を発揮しました。ヤクルトスワローズ初優勝当時を知るファンとしては、久々に見る赤鬼の雄姿に心熱くなった人も多かったことでしょう。
ヤクルトスワローズの日本中にメジャーリーガー旋風を巻き起こしたボブ・ホーナー
ヤクルトスワローズの歴代の外国人選手で最もインパクトがあった選手と言えばボブ・ホーナー選手でしょう。ホーナー選手は1987年にヤクルトスワローズに入団。前年までメジャーリーグの4番を打っていた選手が日本のプロ野球に入ること自体、この時代では驚きでした。
その期待通り、デビュー戦で来日第1号本塁打を放つと、翌日は1試合3本の本塁打をたたき込み、メジャーリーガーの実力を見せつけます。その後も驚異的なペースで本塁打を連発、日本中がホーナー旋風に吹き荒れます。
内野ゴロを打った後の全力疾走も、「さすがメジャーリーガー」とチームにとても良い刺激を与えてくれました。マニエル選手の「赤鬼」の異名を継承し、ビールのコマーシャルにも出演するなど、あっという間に人気者になります。腰の怪我などもあって出場は93試合にとどまりましたが、打率.327・31本塁打・73打点を記録。
残念ながら1年間のみの在籍でしたが、2年目以降も日本でプレイしていたらヤクルトスワローズの歴史は変わっていたかもしれません。ヤクルトスワローズだけではなく、日本プロ野球の歴史においても、鮮烈な印象を残した外国手の一人でしょう。
明るいだけと言われた人気者はシーズンに入ると豪打連発、ドゥエイン・ホージー
ドゥエイン・ホージー選手は1997年にヤクルトスワローズに入団。当時日本で流行していた「プリクラ」をヘルメットいっぱいに貼り、テレビカメラの前では歌を披露するなど、茶目っ気のある愉快な選手でした。
キャンプイン当初は、その粗いプレイに対し、当時の野村克也監督から「明るいだけ」と酷評をされ続けましたが、シーズンに入ると思いがけず本塁打を量産。読売ジャイアンツの松井秀喜選手に競り勝ち、見事38本で本塁打王に輝きました。
シーズン中も、相手チームの応援ダンスを真似しておどけるなど、常に野球ファンを楽しませる素敵な選手でした。ホージー選手の活躍もあってヤクルトスワローズはこの年日本一となります。明るい人気者の選手が多い当時のヤクルトスワローズは、ホージー選手にとってはピッタリの環境だったのでしょうね。
翌年は不振で成績を落とし、2年目のシーズンをもって退団します。在籍期間は短くとも、ヤクルトスワローズファンにとってはその明るいキャラクターによって、記録とともにさわやかな印象が残る外国人でした。
シーズン本塁打記録60本の金字塔、ウラディミール・バレンティン
ウラディミール・バレンティン選手は、日本プロ野球のシーズン最多本塁打60本を記録した外国人です。歴代の外国人が挑戦し続けても達成できなかったシーズン本塁打記録を、一気に5本も更新したのには驚きでした。
バレンティン選手は2011年にヤクルトスワローズに入団。入団1年目は打率ランキング最下位で本塁打王、2年目は規定打席未到達で本塁打王など、本塁打も多いけど好不調の波も多い、確実性に欠ける選手でした。
それでも真面目に日本の野球を学び、成績も安定していきます。そして2013年にシーズン本塁打新記録となる56号本塁打を放ちます。この年は最終的に60本塁打の金字塔を打ち立てます。豪快なバッティングのその一方で、フレンドリーな性格でチームにとけ込み、「ココ」の愛称でナインから親しまれました。
乱闘騒ぎや、緩慢な守備などが話題になることもありましたが、ヤクルトスワローズを愛し、チーム第一で野球に取り組んだ心温かい外国人でした。
2022年、村上宗隆選手がバレンティン選手のシーズン本塁打記録に挑戦していた時期には激励のコメントをよせるなど、今でも日本のプロ野球・ヤクルトスワローズを気にかけてくれていて、とても嬉しいですね。
ヤクルトスワローズの外国人の歴代は?助っ人選手や注目選手を紹介!【まとめ】
ヤクルトスワローズは優秀な外国人助っ人選手の獲得が上手なチームです。ここで紹介できなかった歴代の外国人の中にも、タイトルを獲得したり、優勝に貢献した選手が多くいます。ヤクルトスワローズ伝統のファミリー的な雰囲気は、故郷から遠く離れた地で生活する外国人が安心して野球に取り組める要因なのかもしれませんね。
ヤクルトスワローズが優勝する年には必ず外国人の活躍があります。これからもヤクルトスワローズの躍進を支える外国人の活躍に期待しましょう。