現在のプロ野球は、リーグ戦終了後、セパそれぞれ1位から3位の3チームずつによるクライマックスシリーズが行われます。
2位と3位でファーストステージを戦い、勝ち抜いたチームが1位のチームと戦い、日本シリーズ進出チームを決める方式です。
「ペナントレースの価値が下がる」というような批判は当初から渦巻いていましたが、消化試合が減ったり、1位のチームが独走してもリーグ戦の楽しみが最後まで残るなどのメリットが大きいようですね。
ところで、かつてパリーグでは前期・後期の2シーズン制を導入していました。
これは、1シーズンを半分に分け、前期優勝チームと後期優勝チームで、最終的にプレーオフを行い、勝った方がシーズン1位、そして日本シリーズ進出となる制度です。
この前期後期の2シーズン制は1973年から1982年までの10年間行われました。
今回はかつてパリーグで実施されていた2シーズン制について、その導入や廃止の経緯、プレーオフで起きた数々のドラマについて紹介します。
パリーグの前期後期とは?
当時のプロ野球は長嶋茂雄選手・王貞治選手を筆頭に、読売ジャイアンツ黄金時代の真っただ中でした。
子どもの好きなものの代表格を表す流行語として「巨人・大鵬・卵焼き」と謳われ、プロ野球と言えば巨人、の時代でした。
そのため、他の球団、特にパリーグに光が当たることすら滅多にありませんでした。
さらに、大規模な八百長事件「黒い霧」が発生、パリーグでは多くの選手が処分されます。
その影響を受け、西鉄ライオンズ・東映フライヤーズと言ったかつてパリーグを制した強豪チームが相次いで身売りをするなど、パリーグにとってはまさに激動の時代でした。
危機感を感じたパリーグは、優勝争いを1年に2回行うことにより人気回復を図る目的で、2シーズン制に踏み切ります。
当時の近鉄バファローズ佐伯オーナーの「お祭りは多いほど良い」というコメントがこの2シーズン制導入の根拠を物語っていますね。
前期優勝チームが後期は無気力に!?いきなり課題が浮き出た2シーズン制
パリーグが1973年から導入した前期後期の2シーズン制は、確かに優勝争いが2回行われるというお祭り要素はありましたが、一方で当初からデメリットも不安視されました。
特に、前期優勝したチームの後期の無気力試合などが懸念されました。
その懸念が導入初年にいきなり現実となります
導入初年の1973年、前期を制したのは野村克也監督率いる南海ホークスでした。
後期は阪急ブレーブスが制しましたが、前期優勝の南海ホークスは阪急ブレーブスに対し、後期はなんと0勝12敗1引き分けでした。
後期通算でも30勝32敗3引き分けと、勝率5割を割り込みます。
ところが、プレーオフでは、南海ホークスが阪急ブレーブスを3勝2敗で下し、シーズン優勝、日本シリーズ進出を決めました。
野村克也監督の「死んだふり」作戦と呼ばれたこの戦いぶりは、当然批判されましたが、間違いなくこの2シーズン制に爪痕を残しました。
シーズン通算でも77勝で勝率.616はトップの阪急ブレーブスに対し、南海ホークスは68勝で勝率.540はリーグ3位。
ルールとは言え、阪急ブレーブスの選手やファンは悔やみきれない思いだったことでしょう。
南海ホークスはその後の日本シリーズでは読売ジャイアンツに1勝4敗と惨敗しています。
プレーオフを制したロッテオリオンズがパリーグとして10年ぶりの日本一に!
前期優勝チームの後期の無気力さが問題視された前期・後期の2シーズン制。
しかし、確かに1年に2回の優勝争いと、泣いても笑っても最後の戦いとなるプレーオフは、暗い時代のパリーグに活気をもたらせました。
1974年は前期優勝の阪急ブレーブスと後期優勝のロッテオリオンズの対戦となります。
ロッテオリオンズの監督は稀代の大投手・金田正一監督でした。
金田正一監督は若きエース村田兆治選手を軸に阪急ブレーブスを3連勝で下します。
その勢いそのままに、日本シリーズでも中日ドラゴンズを破って日本一となります。
これは、人気のセリーグ・V9の巨人によって、長く屈辱に耐えてきたパリーグが10年ぶりに日本一の座に輝いた、劇的な出来事となりました。
プレーオフの戦いによって弾みがついたと言っても過言ではないでしょう。
ラッキーボーイの出現で悲願の球団初優勝を成し遂げた近鉄バファローズ
1979年は、前期は初優勝を目指す近鉄バファローズ、後期は阪急ブレーブスが制します。
近鉄バファローズの監督は、かつて阪急ブレーブスで黄金時代を築いた西本幸雄監督。
阪急ブレーブスの監督はその西本幸雄監督の元でヘッドコーチを務めていた上田利治監督。
師弟対決となったこのプレーオフでは、近鉄バファローズに山口哲治選手というラッキーボーイが出現します。
プロ入り2年目、前年は一軍登板すらなかった山口哲治選手は、シーズン36登板で7勝をあげると、プレーオフでは3試合すべて抑えとして登板。
1勝2セーブ、投球回数6回1/3・被安打1の無失点という完璧な内容でした。
山口哲治選手の活躍もあり、近鉄バファローズは球団創立30年目で悲願の初優勝に輝きました。
その後は肩を故障し、目立った成績を残せなかった山口哲治選手は、引退するまで「プレーオフ男」と言われる程、このプレーオフでの活躍は印象強いものでした。
西武ライオンズ黄金時代の幕開けとともに2シーズン制も廃止
数々のドラマを生んだにせよ、当初の目的であった観客動員は思っていたほどの成果もなく、前期・後期の2シーズン制は1982年を最後に廃止となります。
その後は「上位2チームが5ゲーム差以内の場合のみ変則プレーオフ実施」という制度に変わりました。
この頃からパリーグでは西武ライオンズが台頭し始め、2位と大差をつけてリーグ優勝するケースが増えていきます。
結局この変則プレーオフは一度も実施されず、1986年から純粋な1シーズン制と戻りました。
そして、18年後の2004年、現在のクライマックスシリーズの先駆けであるプレーオフ制が導入され、新たなプロ野球の時代が幕を開けることとなりました。
パリーグの前期後期はなくなった【まとめ】
今回はかつてパリーグに導入されていた前期・後期の2シーズン制について、詳しく紹介しました。
この経緯を見ると、当時の人気のセリーグに追いつこうと必死にもがき続けたパリーグの歴史が感じられますね。
問題は山積したものの、巨人黄金時代に終止符を打ち、近鉄バファローズの初優勝を演出するなど、見ごたえのある、大きな意義のある10年間だったと言えるでしょう。
現在のクライマックスシリーズの制度についても、常に賛否両論があり、今後も少しずつそのシステムも変革されると思われます。
その時代を映しだすプロ野球の制度、何より選手もファンも納得して盛り上がれる仕組みであって欲しいものですね。